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てぃーだブログ › 琉球の未来 › 中国古典を活用 › 昨日の続き(五十七回目)

2015年04月09日

昨日の続き(五十七回目)

今日も「道とは何か?」の解説が残っているので、
それを紹介しよう。「老子・第十四章」の意味は、
≪道というものは注視しても見えない。
そこでこれを名付けて
」(形のないもの)という。

道というものは耳を傾けても聞こえない。
そこでこれを名付けて
」(音のないもの)という。

道というものは探ろうとしても
触ることが出来ない。そこでこれを名付けて「
(実体のないもの)という。

この三者は究明することの出来ないものである。
道というものはこの三者が
渾然一体となったものである。
その一体となったものは、
上部が明るいわけでもなく、
下部が暗いわけでもない

果てしなく続いていて
名付けようのないものである。
いわば混沌の状態に戻っているのである。

これを形のない形、姿のない姿というのである。
これをぼんやりしたものと呼ぶ。
これを前から迎えようとしても
頭が見えるわけではなく、
後から従っていこうとしても
その末尾が見えるわけでもない。
昔からの道理を取り持って今の存在を支配し、
すべての存在の根源を知っている。
これを道の大綱というのである。≫
と説明しているが、これも理解するのが難しい。

又、「老子・第二十五章」に、
≪何ものか一つにまとまったものがあって、
天と地よりも以前に生まれている。
静まりかえって音もなく、
おぼろげでいて形もなく、
何ものにも頼らずに独立して不変であり、
どこまでも広くめぐって止まることがない。
それは、この世界のすべてを
生み出す母だといえよう

私はその本当の名を知らないから、
仮りの字(よびな)をつけて道と呼ぶ。≫とある。

「荘子・天道篇」に
夫(そ)れ道は、大に於いて終わらず、
小に於いて遺(のこ)さず。故に万物備わる。
広広乎(こうこうこ)として其れ容れざる無きなり、
淵乎(えんこ)として其れ測る可からざるなり
。』

いったい道というものは、
どんなに大きなものを包みこんでも、
これで終わりということがなく、
どんなに小さなものでも、
これを見落としてすてるということがない。
だからこそ万物がそのうちに備わるのである。
広大無辺で、そのうちに入れないものはなく、
深い淵のようにその深さは
測りしることが出来ないと言っている。

又、「知北篇」に≪道は、
その深くたたえること海のごとく、
高くそびえたつこと山のごときものであり、
終わるかとみれば又始まる無限の循環を
続けるものである。
それは万物を運んで変転させ、
それぞれにふさわしいあり方を与えながら、
自分はいつも乏しくなることがない。≫
と言っている。

「老子・第一章」には、
道の道とすべきは、常の道に非ず。
名の名とすべきは、常の名に非ず
。』

これこそが理想的な「道」だといって、
人に示すことのできるような道は
一定不変の真実の道ではない。
これこそが名だといって
言い表すことの出来るような名は、
一定不変の真実の名ではないとある。
これについて山田史生氏は
≪「知覚出来ないが思考出来るもの
の世界を道で表し、
知覚出来るもの」の世界を名で表す。≫
と言っている。

私は前に「老子」を紹介した時に、
道とはこういうものであると
自分の言葉で表現出来ていないと言ってきた。
そのことは、今現在、「荘子」を勉強していても、
まだ出来ていない。

そもそも道ということを言葉で表現すること自体、
正確ではない。
何故なら、言葉自体、
物事を正確に表現出来ないからだ。

言葉は物事を正確に表現出来ないが、
正確さに近づくようにしているだけである。
であるならば、道を言葉で表現すること自体
無意味ということになる。

しかし、いつの日にか、
言葉は正確ではないにしろ、道について
自分の言葉で語ってみたいと思っている。


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Posted by 合同会社琉球の未来 at 09:41 │中国古典を活用